のまどのまど

音楽や芸術について、気ままに書いたり描いたりする雑記ブログです。

入門書に溺れる。

みなさん、こんにちは。

わたしは普段、ネタになりそうなキーワードを思いついたら手帳にメモするようにしているんですが、先日書いたと思われるものがタイトルの「入門書に溺れる」でした。

 

なんでこの言葉書いたんでしょうかね…。全く思い出せないんですが。

おそらく、いまプログラミングの勉強をしてるので、そのせいかも…。 

 

頑張って思い出してるんですが、せっかくなので今改めて、このキーワードから考えられることを書いていきたいと思います。

 

入門書に入門する

例えば、ある一つの事柄、学問について勉強してみたいと思いついたとして。

 

一般的には、はじめに入門書と呼ばれるものを手に取るはずです。

その本には何が書いてあるでしょうか。

ある本には、勉強しようとしている分野の歴史や分類が載っているかもしれません。

あるいはスポーツに関するものならば、単純な動きやその解説などが。

わたしの場合、専門分野は文系学問なので、大体は前者ですかね。

 

文体も多くが「です・ます調」で、なおかつ平易な言葉で書かれています。難しい専門用語もなく、割と読みやすい。

 

一通り読んでみる。

と、なんとなくその分野についてわかったような気になる。

 

…果たして、本当にわかったのでしょうか。

 

入門書から卒業できない

結構多くの人が、入門書を読んで、なんとなくその気になって終わっちゃってるのではないでしょうか。

意外と、一冊読んで足を止めてしまう人がいる気がします。

 

そのくせ、一回読んでるから、その分野について知ったような気持ちでいて。

 

個人的な感覚なんですが、入門書から専門書って、実際は滑らかに移れるものではないんですね。

ある種、隔絶されたものがある。

 

入門書では出てこなかった専門用語や、その分野特有の語り口。

一番苦しむのは、思考回路が切り替えられない、と言う状況ではないでしょうか。

 

専門書の高い壁

専門書は基本的にその分野の人間を読者として想定しているので、同じ思考回路で話が進むわけです。

 

ところが、世にある入門書のほとんどは、思考の切り替えについて触れていないので、入門書読んだままの頭の使い方で専門書にのぞむと、極端な話、寝起きにトラアスロンさせられるようなもので、途端に動けなくなる。

 

ここで注意しなければいけないのは、入門書はあくまで「一般人」が特定分野について「なんとなく知る」ために書かれたもの、と言うことです。「この分野ではこう言うものの見方をしますよ」と説明されても、その思考回路が身につくわけではないですよね。

 

せっかく入門書から一歩踏み出したのに、このために挫折してしまう人も多いのではないでしょうか。

 

一般人が専門的な思考回路になるためには、今読み終わった入門書とはまた別に訓練が必要です。

 

入門書の海を泳ぐ

この失敗を避けるには、逆説的ですが「良い入門書」を見つけることが大切です。

 

ここでわたしが考える良い入門書とは、最低限以下の2点を押さえているものです。

 

筆者の立場が示してある

書き手がどの派閥、流派や考え方に属しているかで、書き口や本の方向性は大きく変わってきます。このため、Aと言う派閥の人が書いた入門書を読んでから、それを知らずにB派の専門書に当たるとひどい目に合います。

 

著者が前書きなどで示している場合もありますが、多くの場合は本の最後にある「著者略歴」を確認して見ると、なんとなく学派や派閥がわかります。

また、この欄である程度は著者の専門性がわかります。「それどこの組織?」みたいな所属の人もいるので注意です。あとは、どの程度著作を出しているかも見てみると良いかもしれません。

 

参考文献が記載してある

これが非常に重要です。

わたしの場合、この確認がくせになっていて、本を手に取ると、まず最後のページからめくって、巻末に参考文献が載っているかどうかを確認します。巻末ではなく、章ごとにまとめてある場合もあるので、そこもチェックしつつ。

 

参考文献が載ってないものは、そっ閉じです。悪いことは言わないので、その本はやめた方が良いです。

全てが悪書だとは言いませんが、参考文献のないものは個人的には九割九分九厘、ハズレです。

 

なぜ参考文献にこだわるのかと言うと、著者が何を根拠に話しているかが簡単にわかるからです。

特に文系学問の場合は、参考文献を見れば著者が何を書いているかがわかる、と言われるくらい重要視されています。

 

と言うか、参考文献載ってないとか、「道案内しますよ」って言いながら、道半ばで案内をやめてどっかいくようなだと思います。案内人失格です。

 

欲を言えば、上記の条件を満たしていてかつ「読書案内」のようなコーナーが設けられているものならなお良いです。次に何を読むべきかすぐにわかるし、段階的に学習できるので。

 

 

こんにち、本屋に行くと(わたしは書籍派です。電子書籍はどうにも…)、「入門書」と銘打ったものが多く出ています。それこそ、入門書の海です。

 

ただ闇雲に、泳ぎ方を知らずにジャバジャバやってると、いづれは溺れてしまいます。

今回の記事が、みなさんにとって泳ぎ方のヒント、「入門書の入門書」のような位置づけになると幸いです。

 

意外と書けましたね…。

具体例をもっと入れられたら良かったんですが…。

ともあれ、もし良ければ読書の参考にしてもらえたらと。

 

 

それでは、また。

お疲れ様でした。

 

 

吹奏楽と吹奏楽部について思ふ。

みなさん、こんにちは。

 

今日は自己紹介を一旦区切って、吹奏楽吹奏楽部に対するわたしの考えを少し書いてみたいと思います。

 

ちなみにわたしは、専門的な音楽教育を受けたことがない、ただのアマチュア演奏家です。ですので、普通に素人考えの経験論です。

 

でもまぁ、経験した立場からいろいろ考えたので、吹奏楽部に熱をあげてしまっている方に少し、足を止めてみてもらえたら嬉しいです。

 

吹奏楽部「≠」吹奏楽

いきなり剣呑な書き出しですが…。もしこれまでのわたしの記事を読んでくださった方がいたらなんとなくお分かりかもしれませんが、わたしは「吹奏楽部」があんまり好きではないです。

 

blanc-nomade.hatenadiary.com

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と言うか、白状するなら、嫌いです。

あ、吹奏楽は好きですよ。

 

中学時代から大学時代まで、どっぷり部活漬けの生活をしておいてなにを、と言う感じですが、正直吹奏楽部に対する違和感は中学時代からありました。

 

吹奏楽コンクールと金賞至上主義(あるいはダメ金)

幸か不幸か、わたしが所属した部活は全て地方大会落ちの残念団体だったので、苦しみは割と少ない方かもしれません。

ですが、毎年夏がくるのが嫌でいやで仕方なかったですね。

 

そう、全日本吹奏楽コンクールです。

と言うか、今「ぜんにほんす」まで入力したら出てきたんですが、Macちゃんが知ってるくらいなんですね…意外。

 

毎年、春頃に発表される課題曲に始まり、新入生を巻き込んでの自由曲選考、朝練の義務化、消える休日、素性の知れない(下手したら隣のおっさんレベル)の「講師」…。

 

思い出すだけでもげんなりしますね。やばたにえん(最近覚えた)。

みなさんは「夏休み」と聞いて何を思い浮かべますか?思い出しますか?

 

吹奏楽部員の脳内検索候補は多分、「コンクール」「涙」「汗」とかが上位に出てくるんじゃないですかね。どうですか?

 

ね!まったく楽しくないですよね。

現役から遠のいた今でも、あの時期もっと有意義に使えたはず、と言う思いが強いです。

 

いや、毎年コンクールが楽しみで仕方なかった方もいらっしゃるかも知れません。ですので、先述した通り、あくまでこれはわたしの経験論です。

 

「金賞」と言う「呪い」

わたしが現役でコンクール出ている頃から、少しづつ「吹奏楽部」と言う言葉や概念が世間一般に広まっていくようになりました。

 

多分一番の原因(諸悪の根源とも)は某番組の某「吹奏楽の旅」だと思います。

彼らのおかげで、「吹奏楽部」は少年少女たちの一夏の青春ドラマとして世間に消費されるようになりました。

 

つまり、「吹奏楽部」は「コンクール金賞を目指す団体」、のような語りがなされてしまったわけですね。

 

これはわたしの勝手な妄想なのかも知れませんが、コンクールって単なる活動の一つでしかないと思うんですよ。

普段、練習と本番と言う活動の一つ。「金賞」なんてものは、あくまでその結果の一つじゃないかなって。

 

なのに周りを見れば、「金賞」がまず最初にある。本来「良い演奏」が目指すもので、その評価のかたちとして「金賞」があるはずなのに、それが逆転して「金賞」を目指すことがとにかく優先されることに。

 

その結果、どうなるかと言うと、「金賞が取れないと意味がない」と言う思考が生まれます。果てには、金賞取っても次に進めなければ「ダメ金」である、とまで。

 

ここで考えて欲しいのですが、コンクールの結果発表で泣いている生徒がいたとします。と言うか、結果発表の会場の半分くらいはそうなんですが…。

この時、彼(彼女)の脳裏にはどんな思いが巡っているんでしょうか。

 

おそらく、いやほぼ間違いなく、「金賞」にまつわるものがほとんどだと思います。「金賞とれて嬉しい!」とか、「金賞とれなくて辛い!」みたいな。

 

ね、すごいでしょ。彼(彼女)の吹奏楽部での活動や努力の全ては「金賞」と言うものに捧げられてるんです。言い換えれば、金賞が取れなかった時点で、それは否定されるわけです。

 

わたしは中学一年生の時にこのことを思って、戦慄しました。「わたしがやっていたのって、音楽活動じゃないんだな」と。そして、今でもそう思っています。

 

吹奏楽部「=」吹奏楽であるための序曲

ちなみにこの記事を読み返してもらえればわかるんですが、「吹奏楽部」の活動を語る時って、「音楽」と言う言葉は別に必要ないんですね。

 

これが何を意味しているかって言うと、吹奏楽部でわたしたちがやっていたことは、別に吹奏楽部でなくてもできることなんです。

 

つまり、「何か目的のために競争する」と言う構図なんですが、要するにこれはスポーツ系の部活動にも当てはまるものです。

 

この構図から逃れられない限り、吹奏楽部は吹奏楽になれないし、ひいては「音楽」からも離れてしまうように思えます。

まずは、逆説的ですがコンクールから距離を取ることが「吹奏楽部」に新しい意味をもたらすのではないかな、と思っています。

 

 

少し極論に過ぎましたでしょうか。議論の飛躍もあったかと思います。

見る人が見れば、こめかみに青筋ものだと思います。

決して吹奏楽部を頑張っている人たちを否定するわけではないんです。

でも、人生の半分近くを「吹奏楽部」に捧げてしまった身としては、こう思わざるを得ず……。

 

 

実際のところみなさんは、コンクールに対してどんな考えをお持ちなんでしょうか。

楽しく、充実したものであったのなら、それに過ぎることはありません。

もしよかったら、教えてくださいね。

 

それでは、また。

お疲れ様でした。

 

 

わたしの音楽遍歴と楽器(その2)。

みなさん、こんにちは。あやうく三日坊主になるところでした。何事も「続ける」ということが大切ですね…。

 

今回のお話は、前回の続きです。中学時代、無事希望楽器でなかったトランペットに決まったわたしでしたが、そのせいかすぐにトランペットが好きになったわけではありませんでした。

 

とにかく練習嫌い

好きじゃない楽器を任されるし、その楽器はまず音を出すことが大変だったしで、部活の最初のころは、先輩の目を盗んではサボってました。図書室で手塚治虫さんの「ブラックジャック」を読んでいた記憶があります。

謎ルールで最初の5分間は必ずマウスピース吹かなきゃいけなかったし、ロングトーンはとっても退屈だし、口は疲れるし…。

このころにもっと真面目に練習していたら、今多少は上手くなっていたんだと思うんですけど…。当時のわたしにトランペットの魅力を力説しつつビンタしたいですね。

でもでも、先輩たちは謎の上級者感出してくるし、吹奏楽部特有の学年間の確執や、派閥争いもあるし…。人間関係もめんどうくさかったんですよね。

 

そんなわたしに、転機がおとずれます。

 

先輩から借りたCD、セルゲイ・ナカリャコフヴェニスの謝肉祭』

一年生の後半、三年生の引退でほっとしていたある日、二年生の先輩が一枚のCDを貸してくれました。それが、セルゲイ・ナカリャコフの『ヴェニスの謝肉祭〜ミラクル・トランペット』でした。

これがもう、すごいのなんの。当時のわたしには衝撃過ぎて、毎日のように聴き倒しました。ナカリャコフが15歳とかの時の録音だったんじゃないでしょうか。

めくるめくテクニック(いわゆる超絶技巧)、今まで聴いたことのない綺麗な音…。当時のわたしは猛烈に憧れました。…あと、とてもイケメンだったです。

トランペットって、こんなに素敵な楽器なんだ!こんな風に吹いてみたい!難しい曲を吹いてみたい!(金管楽器吹きにとって、「ヴェニスの謝肉祭」は一度は吹いてみたい曲ではないでしょうか。)

(あとイケメン)

 

トランペットの魅力の一端に触れたわたしが、周囲にドン引きされるくらいのトランペットオタクに変貌するのに、時間はそんなにかかりませんでした。

同時期に、家にあったクラッシック全集的なCDの中で、「トランペット吹きの休日(ルロイアンダーソン特集だったかな)」にたまたま出会ったのも大きく手伝っていると思いますが、とにかくトランペットにくびったけでした(です)。

 

トランペットで乗り切った中学時代

目的があくまで楽器を吹くことだったとしても、部活に出るのが楽しくなると、学校生活も変わっていきました。

朝練したいからちゃんと起きて登校するようになり、放課後の部活が楽しみでおもしろくない授業も耐えられるように。

わたしは小学校の時から不登校気味で、中学校でも二年生くらいから不登校しだしたんですが、トランペットのおかげでなんとか登校できていました(授業は……。ここら辺のお話は追々)。

 

こんな感じで日々を過ごし、最終的に自分の卒業式で後輩に混ざって入退場の曲を吹いたりして(わたしだけ)、中学時代は終わったのでした。

 

 

なんだかんだ、長引いてますね…。まぁ、ぼちぼちやっていきましょう。

次くらいは、もしかしたら別の内容で書くかも、です。

よろしければ、お読みくださいね。

あ、みなさんも部活とか学校生活の中での転機があれば、教えてくださいね。

 

それでは、お疲れ様でした。

また、次回。

 

 

 

 

わたしの音楽遍歴と楽器(その1)。

みなさん、こんにちは。できるだけコンスタントに書けるように頑張ろうと思っている今日この頃。のまどです。

今回は、前回記事の続きで、わたしの音楽遍歴についてお話させてもらいますね。
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 まぁ、過去記事を引っ張るほどでもないんですが、一応、練習で…。

 

最初は「吹奏楽

わたしが初めて本格的に音楽と出会ったのは、中学生の時でした。

前々から、きょうだいが吹奏楽部だったり、知り合いの憧れの人がそうだったりして、中学生になったら入部することに決めていました。

希望楽器は、憧れの人がやっていた「チューバ」でした。

ところが、地方中学校の弱小吹奏楽部の選定方法なんて、たかが知れていて、いろいろなパートを回って、古色蒼然とした試験を受けたわけです。

 

ひどかったのは、トロンボーン

腕の長さを計られました。きっとスライド(伸び縮みして音程を変える部分)を操作するのに、腕の長さが優先されていたんだと思います。

みなさんの中にも、入部の時ヘンテコな試験を受けたことある方、いらっしゃるんじゃないでしょうか。今のわたしだったら、顧問にビンタしてダッシュで退部してると思います。

希望のチューバはなんだったかな…。腕力測定とかだった気がします。

 

でも結局、わたしがそれからの人生を捧げることになる「恋人(楽器)」とも、このヘンテコな試験で出会ったわけなので、人間何がおこるかわからないものです。

 

運命の出会い「トランペット」

この試験もひどかった。いまだにやったこととその時の先輩の発言、はっきりと覚えています。

トランペットパートの部屋に入れられて、最初にやらされたのは、椅子を持って腕をまっすぐ伸ばすこと。

 

多分、「トランペット吹くなら腕の力が必要だ!」という汗くさい思考の結果だと思うんですが…。今日まで謎のままです。

というか、思い返しても母校の吹奏楽部、思考がフィジカルに寄り過ぎじゃないですかね。腹筋もやらされてたし…。

 

で、脳筋試験をやったわたしの耳に入ってきたのは、先輩の「候補だな…。」というささやき。

この言葉が全て(夢であり悪夢でもある)のはじまりだったのでした…。

 

その後、部員の前で担当楽器を発表される新入生たち。

無事(?)希望楽器に落ち、トランペットに決まったわたし。チューバ担当になったのは案の定ガタイの良いお友達でしたとさ。

そして始まる部活漬けの日々…、のお話はまた次回。

もし、ここまで読んでくださったみなさんの中に、「母校はこんな方法だった」とかあったら教えてくださいね。吹奏楽部だけでなく、いろんな部活のことでも大丈夫です。

 

それでは、また。

お疲れ様でした。

 

 

 

 

はじめましてのはじめかた。

ごあいさつ

みなさん、はじめまして、こんにちは。初めての記事を読んでくださって、ありがとうございます。

乃窓 羊(のまど よう)です。

最初の記事は自己紹介をしようと思います。冗長に過ぎるかもしれませんが、読んでくださるとうれしいです。

 

わたしのこと

社会人です。まだまだ大人になりきれてないですが…。

音楽と芸術のことでだいたい頭がいっぱい。

考え事が大好き。

読書も好き。

知識欲が強いかも。

超文系です(企業に必要とされない学問のトップを専攻)。

けっこうネガティブ。

日光苦手なインドア。

 

おおまかにはこんな感じです。

これからちょっとずつ書いていけたらと思います。

 

これからのこと

このブログは、わたし(のまど)が日頃感じたり思ったり考えたりしたことを、だらだらっと書いていく(たまに描く)雑記ブログになる予定です。

おもしろい記事が書けるかはわからないですが、読んでくれたみなさんに「こんなこと考えてる人もいるんだな」とか思ってもらえたら…。

 

「のまどの窓」からみた世界、景色を、みなさんにもみてもらえたら。

 

これから、よろしくお願いします。

 

今日はここまで。

また次回、お会いできることを。