(無題)記述
まずはじめに言葉があった
言葉の重さを理解せずに気安く用いる時代になっているように思います。
SNSの時代、デジタルネイティヴ(そしてこれすら死語になりつつある)の私たちは、独り言ですら電子の海に流す。
行先無く呟かれた言葉たちはボトルレターのように海を漂うばかりで。
誰の許にも届かずに波打ち際のゴミの山のように、打ち寄せてひとかたまりになり、私たちの視界を侵食する。
視界に溢れるゴミも、見慣れてしまえば景色の一部となるように、徒に紡がれた言葉たちもやがてただそこにあるだけの存在になる。
こうして言葉が死んでいく。
読みやすい文章を書きましょうと言われます。
例えば、ひらがなを多く使いましょう。
例えば、むずかしい言葉は使わないようにしましょう。
誰もかれもが「わかりやすい」、「かんたんな」文章を書きます。
猫なで声で話すような、甘ったるい言葉で。
わかりやすさとはなんなのか。かんたんとはなんなのか。
それはきっと、「軽さ」や「薄さ」のことであるように思います。
もちろん、言葉を知り尽くした人々が、思慮を尽くして紡いだ「かんたんな」言葉はそうではない。それは重い言葉として、私たちに跡を残すものです。
翻って多く私たちは、言葉の深さを知らない凡夫です。
いわゆるライターやブロガーと呼ばれる人たちも、その多くが言葉を知らないで使っています。彼らが声高に言う「わかりやすさ」や「かんたんさ」は、むず痒くなるような軽さであるように私には感じられます。
言葉を知らないが故に「やすく」なるのはわかるとしても、彼らがさも言葉を知っているかのように、「かんたんな」言葉を使いましょうと教えているのを見るのはなんとも言えない気持ちになります。
朱色はあくまで朱色であって決して赤色ではないのに、前者は伝わりにくいとして、それを「赤色」と言う。
果たして、「わかりやすい」とはなんなのか。
ただでさえ、私たちにとって共通の認識とは何であるかを考えずにはいられないのに、輪をかけて曖昧にしてしまうのではないか。
ショウペンハウアーが当時のドイツ語の陳腐化・貧困化を嘆いていたのと全く同じ状況が、こんにち起こっているのではないかと思えます。
彼は文章家たちが売れやすさを目指すあまり多産に走り、その結果として粗末な文章や言葉を数多く生み出したことを厳しく糾弾しています。
私たちの祖先は言葉を獲得して以来、自身が感得する様々な事象を言語化しようと思考を尽くしてきました。
日本においては特に、色の名称などにそれがあらわれています。もちろん、だから日本は素晴らしい、などと妄言を吐くつもりは無く、対象が異なるだけで世界中の人々が様々の事象をまさに字のごとく、言い表そうと腐心してきました。
色とりどり、味さまざまなその言葉たちを殺しているのは、誰か。
それはおそらく、私たちです。
私たちは、浅はかにも言葉を弄び、時には辱めて、種々の言葉を消し去ってきましたし、きっとこれからもそれは続いていくでしょう。
何かを考えると言うことは、言葉を用いることなしには達成できない。
これは自明のことであるでしょう。
だとすれば、「やすい」言葉しか遣えなければ、その人の思考もまた「やすい」ものとなってしまうのではないか。
ただただ外界の刺激に対して、紋切り型の言葉を紡ぐ。
これは動物の条件反射と何らの違いもないのではないでしょうか。
言葉が完全に死に絶えた時、私たちはたちまちに動物へと戻る。
私は、少しでも言葉の重さを知る人でありたいと思います。
無意味に難解な言葉を連ねるのでは無く、意味ある思考の痕跡として言葉を遣う。
言葉を殺すのでは無く、言葉と共に生きる。
そう言ういとなみを続けていきたいのです。
灯台として、今思ったことを、これから為したいことを言葉にしました。
言葉は難しく、だからこそおもしろいと感じます。
アンチポデスとしてのブログでありたいと思います。
一つの宣言として、ここに。