のまどのまど

音楽や芸術について、気ままに書いたり描いたりする雑記ブログです。

速読は本当に効果があるのか(必要なのか)?

みなさんこんにちは。

最近本屋に行くと、ビジネス書のコーナーに必ずと言って良いほど「速読」をテーマにした書籍が置いてあります。

曰く「年に500冊読める!」、「月50冊読める!」などなど。そして著者は速読を専門(?)に教えている講師の方々。

 

なんとも言えないモヤモヤがあったので、速読と多読についていろいろお話ししていきます。

 

速読の効果とは?

一番の疑問はこれだと思います。

「結局のところ、早くたくさん本を読めると、何が良いの?」と言うことですね。

私なら、「どんな種類の本を対象にしているのか?」も気になりますね。

 

で、速読の効果なんですが、「早くたくさん本が読める」だと思います。トートロジーっぽいですが、結局ここに終始するのではないでしょうか。

 

どう言うことかと言うと、速読本(速読を推奨している、教えている本)の著者は大抵「速読の講師」です。

つまり、速読ができるようになった結果、速読を教えることができるようになった、と言うことなんですね。

 

ゲスの勘ぐりをすると、本来は何かしらの勉強のために速読を身につけたんでしょうけど、果たしてその方面では能力が足りなかった(職を得ることができなかった)ため、転向先として講師になったのではないかと…。

 

これって、速読が役に立ってないと思うんですよ。

何かの目的のための手段が、いつのまにか逆転して手段の目的化が起きている。

別に速読である必要はなくないですか?

 

せっかく山のような数の本を読んだのに、そこから得た知識は脇に置いて、手段について教えている。

知識の持ち腐れだと思います。 

 

目的なき速読は毒になる

強い言葉を使ってみました。

オサレな隊長さんなら、「弱く見えるぞ」と言ってくれそうです。

 

でもこれは至言だと思っていて、

①何か目的のために大量の本を短期間で読まなければならなくなった。

②なおかつ、①の本を短期間で読み終える必要がある。

と言う条件の場合のみ、速読って有用になってくるのではないでしょうか。

 

ビジネスマンとして速読できた方が良い、と言うのは、私の目にはいささか浅薄に映りますね。

そんな理由で「速読練習本」と言う二律背反な書籍に手を向けるくらいなら、読みたい本を時間かけて読んだ方がましです。

 

いたずらに蓄積した知識を一体どうしようと言うのでしょうか。それも断片的な知識を。

 

速読の適所は…

あまり辛く当たっても速読信奉者の方に怒られそうなので、私が思う「速読ができたら良いな」と言う状況を説明しておきますね。

 

「特に今後使うかわからないけれど、とにかく大量のビジネス書籍を読みたい」

 

以上です。

このくらいしか思いつかないんだよなぁ。

 

結局のところ、速読というのはビジネス書のようなある程度ライトな読み物に対してしか効力を持たないんじゃないかな、と思うわけです。

 

しっかりした、信用に値する本は、一語一句に非常に気を使って書かれています。

なんども推敲を重ねた上で、世に出ています。

速読というのは、この過程を軽んじる行為ではないかと思うんですね。

 

たくさんの本を読むこと

速読に付随するのが「多読」です。

けれど、多読についても疑問が出てくる。

 

ショーペンハウアーという哲学者は読書について

「他人の頭で考えること」だと言っています。

つまり、他人の思考の過程を読書を通してなぞる、ということですね。

 

そして、他人の頭で考える習慣がつくと、徐々に自分自身で考える力を失っていく。

このようにも言っています。

 

もちろん、多くの本を読むことは人生を豊かにしてくれます。これは間違いないです。

ですが、目的なくただ数をこなして、そのエッセンスだけを蓄積していくと、それに満足してしまいます。

他人の思考をなぞるだけなら、多読も毒でしかないと思います。

 

読書について

読書で大切なのは、しっかり噛んで飲み込む、ということだと思います。

早食いしても、栄養は十分に吸収されません。

丁寧に読み込んではじめて、本の内容が自分の血肉となるのです。

 

とてもじゃないですが、私はベルクソンドゥルーズレヴィ=ストロースの著作を速読しようとは思わないです。

 

ということで、速読について思うことを書いてみました。

なんとなく、速読が書物や著者を軽視している感じがしたので、厳しめの書き口になりましたが…。

 

 

お疲れ様でした。

それでは、また。